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原発事故と放射能
広島原子力爆弾
エノラ・ゲイは8回の訓練ののち、神戸・名古屋へのパンプキン爆弾を使用した爆撃を行った。
7月31日には、テニアン沖にて、原爆投下のリハーサルを行い、
第二次世界大戦末期の1945年8月6日午前8時15分、連合国のアメリカ合衆国が、枢軸国の日本の広島市に対して原子爆弾「リトルボーイ」を実戦使用した。ウラン239。
投下したのは、太平洋戦争末期に運用されたアメリカ陸軍航空軍第509混成部隊第393爆撃戦隊所属のB-29の機名。B-29の中で原爆投下用の改造(シルバープレート形態)が施された15機の内の1機である。ビクターナンバー82、機体番号44-86292号機。
投下から43秒後、地上600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂。
小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏100万度を超え
1秒後には半径200メートルを超える大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達しました。
爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらし、爆心地では80~100%が死亡、爆心地から1.2キロメートルでは、その日のうちにほぼ50%が死亡。昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が亡くなられたと推計されています。
放射線は、人体の奥深くまで入り込み、細胞を破壊し、血液を変質させるとともに、骨髄などの造血機能を破壊し、肺や肝臓等の内臓を侵すなどの深刻な障害を引き起こしました。
放射線による障害は、爆心地からの距離やさえぎる物の有無によって、その程度が大きく異なっています。爆発後1分以内に放射された初期放射線によって、爆心地から約1キロメートル以内にいた人は、致命的な影響を受け、その多くは数日のうちに死亡しました。
また、外傷がまったくなく、無傷と思われた人たちが、被爆後、月日が経過してから発病し、死亡した例も多くあります。
さらに原爆は、爆発後、長時間にわたって残留放射線を地上に残しました。このため、肉親や同僚などを捜して、また救護活動のため被爆後に入市した人たちの中には、直接被爆した人と同じように発病したり、死亡する人もいました。
被爆直後から短期間に現れた熱線、爆風や放射線による一連の症状を急性障害といい、吐き気や食欲不振、下痢、頭痛、不眠、脱毛、倦怠感、吐血、血尿、血便、皮膚の出血斑点、発熱、口内炎、白血球・赤血球の減少、月経異常などのさまざまな症状を示しました。
これらは全く新しい病気ではなく、放射線の影響や食糧事情などにより、外傷がさらに悪化したり、病原菌への抵抗力が減退して発病したものや、また、外傷がなくても、脱毛や出血症状、白血球の減少といった症状が現れ、多くの人が死亡していきました。
急性障害は、約5か月後の12月末にはほぼ終息し、原爆の影響はこれでおさまったと考えられました。しかし、放射線の影響はこれで終わるものではありませんでした。
長崎原子力爆弾
昭和20年8月9日午前11時2分。
原爆搭載機ボックス・カー号(機長チャールス・スウィーニー少佐25歳)は、高度9,600メートルの上空から第二号の原子爆弾(プルトニウム爆弾)を長崎に投下した。彼の手記によると、長崎の市街も、第一爆撃目標都市小倉と同じく雲におおわれていた。スウィーニーはレーダーによる爆弾投下もやむなし、と決断していた。すでに燃料は沖縄基地までようやくという状態に欠乏し、爆撃航路ただ1回分だけが残っているに過ぎなかった。示された照準点への爆弾投下まであと30秒、トーン・シグナルが作動し、爆弾倉の扉が音をたてて開いた。あと25秒。そのとき、はからずも爆撃手ビーハンの目に雲の切れ間から市街の一部がわずかに見えた。そこは、三菱グランド(浜口町)から三菱製鋼所、同兵器製作所(茂里町)にかけての中間地帯だった。爆弾の投下は目視爆撃で行えということが示された重要命令だった。そこで、ここが急遽投弾目標となった。
爆発は、目標地帯からおよそ5~600メートル北方にそれて、松山町171番地のテニスコートの上空で起こった。(通称爆心地公園の上空) 1945年度中に約7万人が死亡。
ビキニ環礁原爆実験 第5福竜丸
第五福竜丸は、米国・ソ連の核兵器開発が急進展した冷戦時代に、アメリカ合衆国がビキニ環礁で行ったテラー・ウラム型水素爆弾実験により、多量の放射性降下物を浴びた、乗組員23名の遠洋マグロ漁船。無線長久保山愛吉が、被爆した1954年3月1日から約半年後の9月23日に死亡した。 ウィキペディア
スリーマイル島原発事故
事故が起きたスリーマイル島原子力発電所は州都ハリスバーグ郊外のサスケハナ川の、周囲約3マイルの中州・スリーマイル島(Three Mile Island)にある。この中洲には当該原発しかない。
スリーマイル島原子力発電所は2つの原子炉を有し、そのうち2号炉はバブコック&ウィルコックス社(B&W社)が設計した加圧水型原子炉(PWR)で電気出力は96万kWであった。事故当日、1号炉は燃料棒交換中で、停止しており、2号炉は、営業運転開始から3ヶ月を経過しており、定格出力の97%で営業運転中だった。
ハリスバーグでの反核運動
コアの部分的なメルトダウンは1979年3月28日午前4時00分37秒(現地のアメリカ東部標準時(EST))から始まった。
遡ること11時間、2次冷却水系の脱塩塔のイオン交換樹脂の交換作業が続けられていた。通常はイオン交換樹脂は圧縮空気で取り外せるのだが、難航したため、循環水系に圧縮空気を印加して、問題の樹脂を取り外した。この時に少量の水が、弁等を制御する計装用空気系に混入した。やがてこれが原因となり、午前4時00分頃、主給水ポンプ、復水ポンプが停止すると共に、タービントリップ(タービンの緊急停止)を引き起こした。
通常であれば、主給水ポンプが停止した場合、3機の予備給水ポンプが直ちに起動、原子炉二次冷却系の冷却水循環は継続される’はず’が、定期メンテナンスに伴い、予備ポンプからの給水ラインのバルブが閉じられていたため、非常給水はなされなかった。この、二次冷却系への非常給水ポンプからのラインを閉じた場合、原子炉自体も止めてメンテナンスを行うことが原子力規制委員会によるルールである。本件では二次冷却系用非常給水ラインを閉じたまま原子炉の運転を継続したことが、後に本件における最も重大な違反、事故要因とされた。
チェルノブイリ原発事故
1986年4月26日、旧ソ連ウクライナ共和国の北辺に位置するチェルノブイリ原発で原子力発電開発史上最悪の事故が発生した。
保守点検のため前日より原子炉停止作業中であった4号炉(出力100万kW、1983年12月運転開始)で、26日午前1時23分(モスクワ時間)急激な出力上昇をもたらす暴走事故が発生し爆発に至った。目撃者によると、夜空に花火が上がったようであった。原子炉とその建屋は一瞬のうちに破壊され、爆発とそれに引き続いた火災にともない、大量の放射能放出が継続した。最初の放射能雲は西から北西方向に流され、ベラルーシ南部を通過しバルト海へ向かった。4月27日には海を越えたスウェーデンで放射能が検出され、これをきっかけに28日ソ連政府は事故発生の公表を余儀なくされた。
チェルノブイリからの放射能は、4月末までにヨーロッパ各地で、さらに5月上旬にかけて北半球のほぼ全域で観測された。大阪府泉南郡にある京都大学原子炉実験所の筆者らのグループが最初にチェルノブイリからの放射能を観測したのは、5月3日に降った雨水からであった。
事故から4ヶ月後の1986年8月、ソ連政府はIAEA(国際原子力機関)に事故報告を提出した。その報告などに基づくと、大量の放射線被曝による急性障害が200名あまりの原発職員と消防士に現れ、結局31人が死亡した(爆発の時に行方不明になった1人、事故当日火傷で亡くなった1人、被曝以外の死因1人を含む)。事故翌日の4月27日に、原発に隣接するプリピャチ市住民4万5000人が避難し、さらに5月3日から6日にかけて周辺30km圏から9万人、結局13万5000人の住民が避難した。周辺住民には急性の放射線障害は皆無であったとされている。
燃え続ける原子炉を封じ込めて火災を消火するため、4月末から5月始めにかけて、砂、鉛、ホウ素など5000トン以上の資材がヘリコプターから炉心めがけて投下された。86年ソ連報告によると、5月6日になって大量の放射能放出が終わったとされている。
崩壊した原子炉と建屋を丸ごとコンクリートで囲い込む「石棺」の建設が6月から始まり11月に完成した。火災の鎮圧、汚染除去、石棺建設といった事故処理作業には、軍隊をはじめとして大量の作業員がソ連各地から動員され、その数は60万人から80万人に及んだ。
石棺の建設と平行して残っ1~3号炉の復旧作業が進められ、1号炉の運転再開は9月29日、2号炉は11月9日、3号炉は87年12月であった。また、事故当時建設中であった5,6号炉の建設は中止となった。
86年ソ連報告ののち、ソ連国内の放射能汚染や被害に関する情報は全くと言ってよいほど出てこなくなった。チェルノブイリ事故に関する情報は機密扱いとされ、汚染地域に居住している人々にも自分たちが住んでいる所の汚染について知らされなかった。
ベルリンの壁が崩れたのは1989年である。東西冷戦終結の流れの中で、ソ連国内でも変化が起きつつあった。ウクライナやベラルーシでは、民主化・独立を求める運動と汚染地住民の運動が合流し、一緒になって当局に放射能汚染の対策を求め始めた。
事故から3年近くたった1989年2月になって初めて詳細な汚染地図が公表され、原発から300kmも離れた地域にまで高汚染地域の広がっていることが明らかになった。ベラルーシ共和国では、モスクワ中央政府の意向に反して、新たに11万人もの人々の移住が決定された。
汚染地住民の突き上げや各共和国の反抗に手を焼いたモスクワ中央政府は1989年10月、IAEAに対して、汚染地域住民の健康影響と汚染対策の妥当性についての調査を要請した。IAEAは国際諮問委員会(委員長重松逸造)を組織し、その基に1990年春より国際チェルノブイリプロジェクトが始まった。1991年5月、プロジェクトの報告会が開かれ、汚染地住民には放射線被曝に起因する健康影響は認められない、汚染対策はもっと緩やかでもよいが、社会的現状を考えると妥当なものである、という結論が報告された。
これに対し、ベラルーシやウクライナの代表は、甲状腺疾患の増加など深刻な健康影響が出ていると抗議したが、結局無視された。
1991年末、チェルノブイリ事故に対して第一に責任を負うべきソ連が崩壊し、汚染対策はそれぞれの共和国の責任となった。しかし、ソ連崩壊後の経済危機の中で、汚染対策や被災者救援の問題は次第に各国の重荷になりつつある、という状況が続いている。
長期的な観点から最も厄介な放射能汚染はセシウム137(半減期30年)によるものである。ベラルーシ、ウクライナ、ロシア各国で移住の対象となっているセシウム137の汚染密度が1平方km当り15キュリー以上の面積は1万平方km余りに達し、また、いわゆる汚染地域である1平方km当り1キュリー以上の汚染地域の面積は、3ヶ国合わせて約13万平方kmに及び、600万人以上の人々が住んでいる。
被災者の状況:チェルノブイリ事故による被災者は以下のように分類されよう。
事故時に原発に居合わせた職員や消防士たち:1000~2000人
事故の後始末や汚染除去作業に従事した人々:60万~80万人
事故直後に、周辺30km圏から強制避難した住民:13万5000人(11万6000人という数字もある)
事故の数年後より高汚染地から移住した住民:数10万人
汚染地域に居住している住民:600万人以上
1986年ソ連報告は、事故直後に避難した人々には急性の放射線障害は皆無であったと述べている。しかしソ連崩壊後の1992年になって、事故当時のソ連で最も権力をもっていた共産党政治局中央委員会の特別対策グループに、子供を含め多数の急性放射線障害の報告のあったことを示す秘密文書が暴露された。
事故で放出されたヨウ素131(半減期8日)などの放射性ヨウ素による被曝影響として、チェルノブイリ周辺地域では、1990年頃より小児甲状腺ガンが急増を始め、ベラルーシ南部のゴメリ州では、1991年以降世界平均の100倍を越える発生率が観察されている。
1996年4月IAEAなどが主催して開かれた「事故10年総括会議」では、甲状腺ガンの増加を除き、事故による被曝影響は認められないと結論された。一方、1996年のベラルーシ科学アカデミーの報告によると、汚染地域では、内分泌系や血液・造血系疾患といった慢性疾患や新生児の先天性疾患の発生率が、共和国平均を上回っている。
周辺住民の健康悪化には、事故後の社会的、経済的変動やそれにともなう栄養状態の悪化、されには精神的ストレスなど、多くの要因が複雑に絡みあっていると考えられ、健康悪化が認められたとしても、それが被曝の影響であるとは直ちには言えないであろう。しかし、そうした社会要因の多くが事故によってもたらされたものであるなら、健康悪化の第一原因がチェルノブイリ事故にあると考えることは尤もな考え方である。
事故処理作業に従事した人々は、リクビダートル(ロシア語で後始末する人)と呼ばれている。破壊された原子炉周辺の片づけから30km圏の除染作業など、数年間の間に60万人から80万人の人々が作業に従事した。
「石棺」の建設作業は、事故から2ヶ月後には始まっている。つまり、建設作業に取りかかれるよう、それまでには破壊された原子炉の周辺の片づけが終わっていたということである。最初に建屋周辺の片づけにあたったのは、徴兵年齢の若い兵士たちであった。リクビダートルの中でも、彼らの被曝が最も大きかったと考えられるが、放射線測定器もろくに持たずに作業にあたったことが知られている。
リクビダートルの健康悪化は極めて深刻である。作業にあたった年度別にリクビダートルの健康悪化を比較すると、作業時期が早いほど健康状態の悪い傾向が認められ、このことは、健康悪化の原因が作業当時の被曝であることを示唆している。
炉の構造と事故原因:チェルノブイリ原発は、ソ連独自のRBMK(ロシア語でチャンネル式大出力炉、РЕАКТОР БОЛЬШОЙ МОЩНОСТЬ КАНАЛЬНЫЙ の略)型と呼ばれるもので、もともと原爆用プルトニウム製造のために開発された原子炉であった。世界最初の原発(オブニンスク原発、5000kW、1954)はRBMK型原発の雛形である。事故当時のソ連では15基のRBMK(総出力1550万kW)が運転中で、チェルノブイリ発電所では4基のRBMK炉が稼働中で、5号炉と6号炉が建設中であった。
RBMK型は、その構造からは黒鉛減速・軽水沸騰冷却・チャンネル管型原子炉と言える。黒鉛ブロックをレンタンのように円筒状に積み上げ(直径12m高さ7m)、約1700本の垂直貫通孔に、燃料集合体を含む圧力チャンネル管(外径8.8cm)を差し込み、管の中で冷却水を沸騰させる仕組みである。
利点としては、運転中に燃料交換が可能、大出力化が容易、大重量機器が不要なので内陸立地が容易といった点がある。一方、多数のチャンネル管のため制御が複雑になること、炉心でのボイド反応度係数が正になる(気泡が増えると出力が上昇する側に作用する)ため、チャンネル管破損事故から暴走に至る可能性といった弱点を抱えている。さらに、チェルノブイリ事故後、制御棒の一斉挿入が、極端な条件下では出力上昇をもたらすという制御棒の設計欠陥が判明した。
1986年8月のソ連政府報告は、事故の原因は「運転員による数々の規則違反の類まれなる組み合わせ」として、制御棒を引き抜き過ぎの状態での運転、原子炉停止信号のバイパスなど6項目の違反を上げ、事故の責任を全面的に運転員に押しつけている。同時に、制御棒の引き抜き制限の強化、制御棒作動時間の短縮などといった5項目の安全対策を発表している。これらの対策は、事故の原因に原子炉の構造欠陥が関係していたことをソ連当局が承知していたことを示している。
ソ連最高会議のチェルノブイリ事故調査委員会の要請を受け、事故原因の見直しを行ったソ連原子力産業安全監視委員会特別委員会は1991年1月の報告で、「事故の原因は、原子炉の欠陥とそれを知る立場にありながらしかるべき対策をとらなかった責任当局にある」とし、1986年の報告で列挙された運転員規則違反の多くは根拠のないものとしている。
福島第1原発事故
2011年(平成23年)3月11日の東北地方太平洋沖地震発生当時、福島第一原子力発電所(以下「原子力発電所」は「原発」と略す)では1 – 3号機が運転中で、4 – 6号機は定期検査中だった。1 – 3号機の各原子炉は地震で自動停止。地震による停電で外部電源を失ったが[18]、地下に設置されていた非常用ディーゼル発電機(略称:DG)が起動した。
ところが地震の約50分後、遡上高14 m – 15 m(コンピュータ解析では、高さ13.1 m)[19] の津波が発電所を襲い、非常用ディーゼル発電機が津波の海水により故障した。さらに電気設備、ポンプ、燃料タンク、非常用バッテリーなど多数の設備が損傷または、流出で失われため[20]、全電源喪失(ステーション・ブラックアウト、略称:SBO)に陥った。このため、ポンプを稼働できなくなり、原子炉内部や使用済み核燃料プールへの注水が不可能となったことで、核燃料の冷却ができなくなった。核燃料は運転停止後も膨大な崩壊熱を発するため、注水し続けなければ原子炉内が空焚きとなり、核燃料が自らの熱で溶け出す。
その後1・2・3号機ともに、核燃料収納被覆管の溶融によって核燃料ペレットが原子炉圧力容器(圧力容器)の底に落ちる炉心溶融(メルトダウン)が起き、溶融した燃料集合体の高熱で、圧力容器の底に穴が開いたか、または制御棒挿入部の穴およびシールが溶解損傷して隙間ができたことで、溶融燃料の一部が圧力容器の外側にある原子炉格納容器(格納容器)に漏れ出した(メルトスルー)。また、燃料の高熱そのものや、格納容器内の水蒸気や水素などによる圧力の急上昇などが原因となり、一部の原子炉では格納容器の一部が損傷に至ったとみられ[21][22]、うち1号機は圧力容器の配管部が損傷したとみられている[23]。
また、1 – 3号機ともメルトダウンの影響で、水素が大量発生し、原子炉建屋、タービン建屋各内部に水素ガスが充満。1・3・4号機は水素爆発を起こして原子炉建屋、タービン建屋および周辺施設が大破した(4号機は定期検査中だったが、3号機から給電停止と共に開放状態であった、非常用ガス処理系配管を通じて充満した可能性が高い[24])[25][26]。
格納容器内の圧力を下げるために行われた排気操作(ウェットベント・ドライアルベント)や、水素爆発、格納容器の破損、配管の繋ぎ目からの蒸気漏れ、冷却水漏れなどにより、大気中や土壌、海洋、地下水へ大量の放射性物質が放出された。複数の原子炉(1,2,3号機)が連鎖的に炉心溶融、複数の原子炉建屋(1,3,4号機)のオペレーションフロアで水素爆発が発生し、大量に放射性物質を放出するという、史上例を見ない大規模な原発事故となった[27][22]。
事故により、大気中に放出された放射性物質の量は、諸説あるが、東京電力の推計によるとヨウ素換算値で約90京ベクレル(Bq)で、チェルノブイリ原子力発電所事故での放出量520京 Bqの約6分の1に当たる[28][29]。東京電力は、2011年8月時点で、半月分の平均放出量は2億Bq(0.0002 TBq = 0.2GBq)程度と発表している[30]。また空間放射線量が年間5ミリシーベルト(mSv)以上の地域は約1800km2、年間20mSv以上の地域は約500km2の範囲に及んだ[29]。
日本国政府は、福島第一原発から半径20km圏内を「警戒区域」、20km以遠の放射線量の高い地域を「計画的避難区域」として避難対象地域に指定し、10万人以上の住民が避難した。2012年4月以降、放射線量に応じて避難指示解除準備区域、居住制限区域、帰還困難区域に再編され、帰還困難区域では立ち入りが原則禁止された。2014年4月以降、一部地域で徐々に避難指示が解除され、避難指示解除準備区域・居住制限区域では2020年3月に全て解除されたが、帰還困難区域では一部地区を除き避難指示が続いている。
原発事故による放射能
原発事故ででる放射能とは
セシウム134 半減期8日
セシウム137 2年
ヨー素131 30年
ストロンチウム90 28.8年
検査
甲状腺エコー検査
主な検査は触診、超音波(エコー)検査では、がんのある場所や、がんの形・大きさ、がんの周辺の臓器との関係などを確認
CT検査、シンチグラフィ検査、
病理検査(穿刺吸引細胞診)バイオプシーをして、核封入体の確認などを行う。
オペレーション
全身麻酔のうえ、摘出手術
アイソトープ治療
大量の放射線ヨー素飲む
30マイクロシーベルト以下にならないと退院できない
東京電力 被告側は100ミリシーベルト以下では甲状腺がんは発生しないと主張
甲状腺等価線量100ミリシーベルト以下ではがんは発生しないという論文はない。
環境省が発表している福島原発爆発時の放射能の数字
福島第一原子力発電所事故が発生した2011年3月中の事故による放射性物質の大気中への放出量は、希ガスが500PBq程度、ヨウ素131が500PBq程度、セシウム134が10PBq程度、セシウム137が10PBq程度と推定されています。
なお、原子力事故の程度をあらわす指標にINESレベルという指標がありますが、福島第一原子力発電所事故はレベル7に相当し、チェルノブイリ原子力発電所事故と同じレベルに分類されています。スリーマイル島原子力発電所事故はレベル5となっています。
※P(ペタ)は10の15乗、すなわち、千兆をあらわし、Bq(ベクレル)は1秒当たり1回放射線を出す放射能量であることを意味する単位です。
岡山大学津田俊秀教授の意見書
相対危険度と原因確立95~99%
東京電力に6億円余りの損害賠償
子どもの甲状腺がんは2007年までの10年間の平均で年間100万人に1人から2人しか発生していないが、福島では、事故後のおよそ10年で少なくとも合わせて293人確認されている」などとして「がんは事故による被ばくが原因と推定される」と主張しました。2022年5月26日 、東京電力福島第一原子力発電所の事故の影響で甲状腺がんになったとして、事故当時子どもだった6人が東京電力に賠償を求めている裁判が始まっている。