教育基本法改悪を切る(福島県弁護士会)

教育基本法「改正」法案に対する反対声明

過日、発足した安倍内閣は、教育改革を最重要課題として掲げ、教育基本法「改正」法案(以下、「改正」法案という)の早期成立を目指すことを明らかにしている。

しかし、同「改正」法案には、以下に指摘する様な重大な問題が含まれている。

当会は、この「改正」法案に対し、ここに強く反対の意思を表明するものである。

1. 基本的性格の変容

教育基本法(以下、「基本法」という)は、その目的である「日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、日本の教育の基本を確立する」(同法前文)を達成するため、教育を受ける者との関係で「権力」を行使する立場にある者(国や地方公共団体の教育行政機関・学校・教員)を名宛人とし、その「権力」を拘束することを目的とした法である(同法第3・5・8・9条参照)。

しかるに、「改正」法案は、次に指摘する様に、教育基本法を「権力」を拘束することを目的とした法から、子ども・親・市民に対して命令する法へと、その性格を根本的に変容する内容であり、「改正」に名を借りつつ、実は基本法とは全く異なる目的・理念に基づく新たな法規範の制定を目指すものとなっている。

そもそも基本法は、教育に対して国家が介入し一元的な価値観や一方的な観念を国民に植えつける教育が招いた我が国自身や近隣諸国の惨禍を反省し、教育の根本法規として子どもが自由かつ独立の人格として成長するために必要な理念と基本原則を明らかにする法として制定された。従って、当然に、基本法の名宛人は国家等の教育行政機関となっている。基本法の、この教育行政機関を拘束する法規範であるとの性格は、決して変容させてはならないものである。

2. 基本法第10条「改正」

教育は、教師と子どもの直接的・人格的な触れ合いの中で、子どもの個性に応じて弾力的に行なわれるものであるから、教育には、教師の自由な創意・工夫が求められる。

故に、国家による教育内容への一元的な介入・統制は、子どもの個性を無視した硬直で柔軟性に欠ける教育をもたらす危険があるため、本来的に、教育に親しまないものである。この様な教育の本質と国家による教育内容の統制が我が国や近隣諸国に惨禍をもたらした歴史的反省に立脚して、基本法は制定された。

このような事実を背景として、基本法第10条は、教育の中立性・不偏不党性を指向し教育現場での自主性・自立性の尊重を明らかにして、国家による教育内容に対する介入を出来るだけ抑制することを求めている。

しかし、「改正」法案第16条では、基本法第10条第1項の「教育は、不当な支配に服することなく」 との文言を残すものの、「国民全体に対し直接に責任を負って行なわれるべきもの」との表現については、「この法律及び他の法律の定めるところにより行なわれるべきものである」と変更され、更に、基本法第10条第2項の「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目的として行なわれなければならない」との定めは削除されている。この結果、「改正」法案では政党政治の下で多数決原則によって決せられた価値観や観念が、教育目的遂行に必要な諸条件の整備確率の範囲を超えて押しつけられ、国家権力が教育内容に介入することも可能となってしまっているのである。

3. 精神的自由の侵害

基本法第2条は、教育目標達成において、「自発的精神を養い」「自他の敬愛と協力」によることを教育の方針とし、これによって一方的に特定の価値観を押しつけることのないように配慮すべきことを規定している。これに対して、「改正」法案第2条は、「教育の目標」として個人の意志・意欲や内心に関わることがらを含む5項目を掲げ、これらを達成すべく教育が行なわれることを規定する。

基本法第2条が掲げる「徳目」は、本来、多様性を持つ多義的な概念であって、もとより一方的にその内容を決定出来ないはずのものである。しかし、「改正」法案第16条は、教育が「この法律及び他の法律の定めるところにより行なわれるべきものである」と定めているため、「徳目」の内容が多数決原則によって一方的に決せられ、教育内容に一義的な価値観や観念が持ち込まれ、その達成を目的として教育が行なわれる結果、教師や子ども・親らの精神的自由(憲法第19・20・21・23条)が侵害される懸念が払拭できない。

4. 「改正」法案は、以上に指摘したとおり、その内容において、看過できない重大な問題を含むものである。

よって、当会は、「改正」法案に強く反対するものである。

2006年(平成18年)10月24日
福島県弁護士会
会長  岩渕 敬

改悪内容対照表

教育基本法改正対照表

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