日本共産党の誕生
1921年4月、堺利彦・山川均・近藤栄藏らによって日本共産党準備委員会結成。「日本共産党宣言」「「日本共産党規約」をコミンテルンに送付。1922年7月15日、進歩と革命の伝統を受け継いで日本の労働者階級の前衛によって創立。1922年11月コミンテルン第4回大会で承認。コミンテルン日本支部・日本共産党として認められる。
コミンテルン廃止してコミンフォルム
ソ連との1950年問題
日本共産党は、1946年の第五回党大会で「平和的かつ民主主義的方法」で社会の変革をめざすという方針を決めました。
これに対し、
1950年1月6日、コミンフォルム論評。
1950年、コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)から、「アメリカ占領下での『平和革命』論は間違っている」と突然の「批判」がありました。この「批判」は、当時の徳田球一書記長ではなく、政治局員だった野坂参三だけを名指しで問題にしたものでした。これは、ソ連の情報機関につながる秘密工作者となっていた野坂に、新方針を伝えるためのメッセージだったとみられます。そのいきさつについては、不破委員長の著作『干渉と内通 の記録』がソ連秘密文書をもとに明らかにしています。徳田、野坂は、党を破壊し、北京に亡命して勝手につくった「北京機関」を党の指導機関と称して、ソ連・中国じこみの方針を日本に持ち込んだのです。
スターリンは、中国共産党の劉少奇と一緒になって1950年に日本共産党を分裂させた「徳田・野坂分派」を使って、ソ連・中国流の武装闘争方針を持ち込もうとしたのです。ソ連のスターリンは、米の軍事戦略の重点をヨーロッパからアジアへうつさせるために、北朝鮮の「南進」政策を支持します。ソ連は、米軍の後方をかく乱するため、中国を「副官」として、日本共産党に武装闘争をおしつけようとしました。党中央の一部がそれに内通・呼応して、中央委員会が解体されました。
1950年4月第19回中央委員会総会の後で、意見の違う宮本らを排除して、徳田球一が野坂らを自宅に集めて非公然活動に入ることを決定。
1950年6月6日、マッカーサー日本共産党中央委員を公職追放。
1950年6月7日、徳田球一・野坂参三「北京機関」結成。
1951年2月4全協。
1951年4~5月、スターリン51年文書を発表して武装闘争方針を押し付ける。
スターリンは北朝鮮の南進を支持、その後方作戦の方針として、日本共産党に武力闘争方針を押し付ける。
1951年8月、コミンフォルムの機関紙「恒久平和と人民民主主義のために」が「分派主義者に対する闘争に関する決議」を掲載。
1951年10月5全協で武装方針を採択。
1955年7月、6全協で統一の回復めざす。
1957年10月、第15回拡大中央委員会で「50年問題」総括。
1958年7~8月、第7回大会。綱領確定保留
当然、この路線は破たんしました。そして、日本共産党が統一を回復した第七回党大会(1958年)、現在の綱領を確定した第八回党大会(1961年)にすすむ過程で、(1)徳田、野坂らが党を分裂させたことの誤り、(2)ソ連・中国などの干渉に追随したことの誤り、(3)武装闘争路線を持ち込んだことの誤り――を明確にし、それを根本的に克服するなかで、今日の党の路線が確定したのです。
85周年記念講演では、
1950年にソ連の指導下の国際機関であるコミンフォルムが、続いて中国共産党が、日本共産党に公開の論文で批判を加えてきた時には、党内に一時的には混乱も起こりました。しかし、全体としては、経験の深い友党からのまじめな忠告だと受け止めた党員が多数でした。ところが実は、これは友党のまじめな忠告などではなく、自分たちの思惑と都合から日本で武装闘争を起こさせようと考えたスターリンとソ連共産党の干渉作戦の幕開けだったのです。その筋書きは、党の指導部の中にソ連の言いなりになる分派、いま「徳田・野坂分派」と呼んでいますが、これをつくらせ、党の中央委員会を、アメリカ占領軍の弾圧に乗じて解体する、そして北京に秘密の指導機関をつくり、そこを通じてスターリンが計画していた武装闘争方針を運動に押しつける、こういうものでした。福田正義、隅岡隆春、穴迫隆之、大林清美、津田浩俊、古谷荘一郎、弘中朗夫、田中廉三、板倉澄子、安村哲次、諸井条次、原田長司。このうち、いまでも、福田一派にとどまっているのは、福田、隅岡、穴迫、古谷、弘中、板倉のわずか六人。
この干渉は、戦後多くの党員の活動によって営々と築かれてきた国民との結びつきを断ち切り、取り返しのつかない深刻な打撃を党に与えました。実際、干渉の前の年、一九四九年一月の総選挙で党は二百九十八万の得票を得、三十五人の議員の当選をかちとりましたが、干渉作戦が始まったあとの五二年の総選挙では、得票は八十九万票に減り、当選者はゼロという最悪の結果に落ち込みました。
これを私たちは「五〇年問題」と呼んでいます。
81カ国宣言
1950年問題を契機に日本共産党は、“自分の方針は自分で決め、外国のどんな党の干渉も許さない”という自主独立の原則を決定しました。
1959年2月、ソ連共産党第21回大会で南千島返還を要求。
1960年11月、この論争を解決し、国際的な共通の運動路線を確立するために、81カ国労働者党代表者会議が開かれることになりました。これは、第2次世界大戦後、最初の国際会議であり、そしてまた、結局はこの種の会議の最後の開催となったものでした。
当時、共産主義運動は世界でかなり大きな勢力をもち、そのなかでは、ソ連がスターリン時代以来の圧倒的な支配力を持っていました。国際会議には81カ国の党が集まりましたが、そのなかで事実上ソ連の支配下にあった党が76と、圧倒的多数でした。とくに、資本主義世界で活動している69の党のうちでは、自主独立の立場をとった党は日本共産党だけでした。
11月の本会議の前に、予備会議が10月に開かれ、ここで共同声明の草案が討論されました。この会議で、宮本顕治同志を団長とする代表団は、ソ連共産党が中心になって用意した原案にたいし、80項目を超える修正案を提出しました。高度に発達した資本主義国での革命の戦略問題や、共産党間の関係での対等・平等性、自主独立の原則など、多くの重要な提起をおこない、間違った主張にたいしては断固とした論戦を展開しました。
1964年部分核停条約
ソ連は、60年会議の直後から、日本の党指導部内に内通者をつくる工作をはじめ、日本共産党打倒作戦をすすめ始めました。
それが表に出て、ソ連の干渉攻撃との全面的な闘争が始まったのが1964年であります。海を越えての攻撃だけではなかったのです。内通者を動員して、全国に「ニセ共産党」の組織をつくり、それを日本共産党にとってかわらせる。こういう目的をもった干渉で、当時の国際運動の中でも、前例のない、まさに無法きわまる攻撃でした。日本共産党は、64年以前は、ソ連共産党との論争や干渉行為への批判は、運動内部の問題として、国際ルールを守って、こちらからは公表しないでいました。
だから、64年に始まった干渉攻撃は、全党の目から見ると、まったくの不意打ちで、突然始まったものでした。
「志賀除名問題」である。昭和39年5月に、国会で部分核実験停止条約を承認したが、共産党のみが反対投票をしている。この時共産党で党議決定に反して賛成したのが志賀義雄衆議院議員と鈴木市蔵参議院議員である。
ソ連共産党は、機関誌「プラウダ」に志賀の声明全文を掲載するなどして彼らを支持した。
日本共産党はこの二名を除名したのだが、これを機にソ連共産党と日本共産党の関係は決定的に悪化した。
つまり日本共産党は、ソ連共産党と必要に応じて協力こそすれ、ソ連共産党に従属しない、という路線を採用したのである。これと軌を一にするかのように、この前後からソ連共産党と日本社会党の関係改善が進み、社会党内の親ソ派の攻勢は強まった。
昭和39年2月15日、ソ連共産党中央委員会でスースロフの演説「国際共産主義運動の団結のためのソ連共産党のたたかいについて」がなされた。
スースロフ理論とは、ソ連などの共産主義諸国やその同調者を「社会主義・平和勢力」、日米欧を「帝国主義・戦争勢力」と名付けて、世界や国家を二分し、世界中の「反帝・平和勢力」にソ連邦を中心に結束するように訴えた、冷戦の論理だった。
その核心は、「反核」(この場合の「核」は帝国主義・戦争勢力の核のみを指す)運動であった。スースロフ演説以降、「非武装・ 中立」の概念は石橋派や社会主義協会派などの親ソ派によって社会党内に持ち込まれた。
私自身、この年の3月、労働組合の活動から党本部に移って、理論政策活動の任務に就いたとき、60年以来のソ連との論争の経過や、ソ連大使館を拠点にした日本国内での干渉攻撃の実情をはじめて知りました。
ところが翌4月には、ソ連共産党から日本共産党への非難・攻撃の書簡が寄せられました。続いて5月には、党幹部で国会議員だった志賀義雄らが、ソ連に追従して反党分派の旗揚げをする。こうして、これを支持するソ連共産党との公然の論戦が始まったのです。1964年5月15日「部分核停条約」が上程され、採決されることになった。社会党は賛成し、共産党は反対の立場に立った。ところが、こうした党の方針に基づき4議員が反対票を投じたが、志賀が党の決定に背いて賛成票を投じた。投票総数319のうち反対派共産党の4票だけだったので、志賀の行動が明らかとなり衝撃を走らせた(志賀問題)。この時ソ連のミコヤン第一副首相が傍聴していた。1964年5月25日鈴木一蔵は参議院で賛成。中野重治は1964年の部分核停条約の批准をめぐる意見の相違のなかで、党の決定にそむいて、志賀義雄・神山茂夫・鈴木市蔵らとともに「日本のこえ」派を旗揚げした。この〈日本のこえ〉の命名をした
8月末、私たちは、ソ連側の批判に全面的に反論し、数年来の干渉行為を具体的に告発する「返書」をソ連に送りました。この返書を、私たちは9月2日の「赤旗」に発表しましたが、どんなものであったかを紹介するために、そのコピーをここにもってきました。(コピーを手にして)返書は「赤旗」の1面から始まります。論文ではなく相手への手紙ですから、途中、章の区切りはあっても、内容を示す見出しは何もありません。それが8ページも続くのです(どよめき)。当時、「赤旗」は8ページ建てでしたから(笑い)、その日は特別に12ページ建てにしたのですが、続いて掲載したソ連の書簡が2ページ余り、最後のページはテレビ・ラジオ欄ですから、一般記事は「潮流」欄を含めて1ページに満たない紙面になりました。
これを全国に配布しましたから、読者はびっくりしたでしょうが、これを身につけないと、干渉者とたたかえないのです。なにしろ相手は、海を越えた彼方にいるだけではない。各地に「ニセ共産党」をつくって、攻撃してくるのですから。必死になって、この日の「赤旗」を勉強したものです。
わが党は、この闘争に全力で取り組みながら、国内政治での躍進をかちとりました。衆議院で14議席をかちとった69年総選挙、39議席で野党第2党に躍進した72年総選挙、これらの前進もこの激烈な闘争のなかで成し遂げたものでした。
そして、干渉の暴挙に出た二つの党も、最後には、自分たちの誤りを認めざるを得なくなりました。ソ連は、干渉攻撃の開始から15年たった1979年12月、両党会談で干渉の誤りを公然と認めて反省の態度を示しました。
しかし、ソ連アフガニスタン。侵攻
スターリンの大国主義
1924年レーニン死去
ソビエト連邦最高指導者ソ連国内と衛星国モンゴル人民共和国、ポーランド、ウクライナ等で実行した大規模政治弾圧。
ロシア連邦国立文書館の統計資料
1934年12月のキーロフ暗殺事件は、35年から38年に荒れ狂った「大テロル」の発火点になりました。
1937年~1938年の1年間で反革命罪で134万4923人が即決裁判で有罪、63万4820人が強制収容所や刑務所へ送られている。
1917年の革命に参加したオールドボルシェビイキといわれるレーニンの息のかかった旧指導者層は一部を除いて絶滅させられた。
1922~23年にスターリンの立場の有害性を見ぬいたレーニンが、スターリンの大国主義と粗暴な官僚主義に対する「最後の闘争」を決意したころには、すでにかなり危険性を強めていて遅かった。
理由はレーニンが「スターリンだけは書記長にするな」と言い残したことによると推測される。1934年の中央委員会メンバー139人中110人が処刑または自殺に追い込まれている。
1939年の大会に参加できたのは2%だったと記されている。
1937年第17回党大会の1966人の代議員中1108人が銃殺刑。
1940年にトロッキーがメキシコで殺害後はレーニン時代の最高指導部で生き残ったのはスターリンを除けばカリーニンだけだった。
1953年3月5日、スターリンが死ぬまで専制政治が続けられた。大会・中央委員会がほとんど開催されなかった。スターリンに対抗していたものは全て嘲笑の下にモスクワ裁判という公開裁判で死刑の宣告を受けた。
ブハーリン、カーメネフ、ジノビエフ、トムスキー、ルイコフ、ピャタコフ、デラック
スターリンは「農業集団化」の時、反対する農民を「富農」としてすべて追放します。「富農」かどうか判定するのに、地方の党委員会書記やソビエト執行委員会議長らで三人組をつくり、即決裁判で農民の追放を進めました。それが「トロイカ体制」です。
スターリン自身が1千万人追放したと言っているように、膨大な人間を弾圧する仕掛けでした。おまえの地方では何万何千の人間を整理せよ、超過達成せよ、という調子です。
NKVDの責任者を務めたベリヤは収容所体制を一つの有力な「産業」部門にまでしました。収容所という非常に安い労働コストで、大運河や原爆をつくりました。日本のシベリア抑留者もベリヤ部門に配属されたのです。
非共産圏の共産党員も被害にあう。
1939年ドイツの共産党員600人がゲシュタポに引き渡される。
イタリア共産党員200人
ユーゴスラビア人100人
ポーランドの共産党員指導者5万人全員が銃殺
1942年コミンテルンのスタッフ全員が粛清
米英独仏ポーランド日本の役員や共産主義者たちがスパイ破壊活動家の汚名を着せられてさらし者にされて死刑にされている。
日本では判明しているだけで、山本懸蔵、伊藤政之助、国崎定清、杉本良吉ら10~20名が処刑されている。
1936年第1次モスクワ裁判から赤軍の大粛清も行われている。
1937年6月11日、ミハイル・トーハチェフスキー元帥はじめ、キエフ軍管区司令官、白ロシア軍司令官、ら高官がナチスドイツのスパイとして銃殺される。
6月20日、シュミット将軍処刑。レーニンの息のかかった軍人元帥5人中3人、軍司令官級15人中13人、軍団長級85人中62人、師団長級159人中110人、旅団長級406人中220人、大佐級も4分の3が殺され、大佐以上の高級将校の65%が粛清される。ソ連赤軍特有の政治委員2万人、赤軍の共産党員30万人の半分15万人が1938年代に命を落とす。
1878年12月21日、ロシア帝国統治下のグルジアのゴリで生まれた。正教の神学校で教育を受けるが[2]、後に無神論に転向してマルクス主義の信奉者となり、1899年10月に神学校を去って革命家へと転身した。
その後、ウラジーミル・レーニンが率いるロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ派に加わり、1912年に党中央委員に選出された。1917年の十月革命でボリシェヴィキが権力を掌握した後、レーニンのロシア共産党による独裁国家が成立すると、その行政府である人民委員会議の有力者となり、1922年4月に党書記長に就任し、同年12月のソビエト連邦の建国にも深く関与した。ソビエト連邦の指導者であったレーニンが1924年1月に死去すると、その後継をめぐって起きたレフ・トロツキーとの権力争いを制し、自身が務めていた党中央委員会書記長に権限を集中させることで最高指導者としての地位を確立した。党内ではトロツキー派の世界革命論(永久革命)を否定して、一国社会主義論による国内体制の維持を優先する路線を示した。この理論対立はトロツキー派の粛清の大義名分としても用いられた。
以降は人民委員会議議長および同職を改組した閣僚会議議長、軍事大臣、前述の党中央委員会書記長などの要職を兼任し、死去する1953年3月まで最高指導者の地位にあった。
スターリンの大国主義・覇権主義の誤りが国際政治の舞台でむき出しに現れたものとして、ヒトラー・ドイツとの「秘密議定書」、バルト3国併合、千島列島の占領などをあげました。スターリン死後もその誤りは、チェコスロバキア侵略、アフガニスタン侵略などと引き継がれました。「バルト3国とアフガンは、ソ連崩壊の引き金になりました」と歴史の皮肉を語ります。
1991年にソ連が崩壊し、世界はどうなったか。日本共産党は、ソ連共産党の解体にさいして発表した常任幹部会声明「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する」で、「世界の平和と社会進歩の勢力にとっても、日本共産党のたたかいにとっても、巨大なプラスをもたらすものである」との立場を表明しました。「今、このときの予見をはるかにこえて、世界が生きいきしてきました」と指摘しました。
志位さんは、中南米各国の左派政党が参加する「サンパウロ・フォーラム」が、ソ連崩壊をきっかけに、新自由主義ノーの声を上げ、新しい社会主義への展望をかかげるとりくみを紹介。「ソ連が本当になくなってよかった」と感慨を込めて話すと、会場からも共感の拍手がおこりました。
科学的社会主義というルネッサンス的理論的発展
自主独立の立場で科学的社会主義の「ルネサンス」を
ここで強調したいのは、わが党が、自主独立の立場を政治行動の分野だけにとどめず、理論活動の分野でもその立場を貫いたことであります。
世界の運動のなかでそれまで国際的定説とされていたのは、ソ連中心に築き上げられてきたカッコ付きの「マルクス・レーニン主義」でした。私たちは、1976年 7月28 日から7月30日に開かれた日本共産党の第13回臨時党大会で、ソ連流の「マルクス・レーニン主義」と手を切ることを決定し、マルクスの理論そのものの自主的探求とその現代的発展に力をつくしてきました。
私は5年前、党創立90周年の記念講演で、科学的社会主義の「ルネサンス」について述べました。
「われわれが半世紀にわたって取り組んできたこの仕事は、スターリン時代の中世的な影を一掃して、この理論の本来の姿を復活させ、それを現代に生かす、いわば科学的社会主義の『ルネサンス』をめざす活動とも呼ベるものだ、と思っています」
こういう仕事をやりとげてきたからこそ、世界を揺るがせたソ連の崩壊という激動の中でも、日本共産党は、科学的社会主義の旗を断固として守り、ソ連とそれを支配したスターリン主義の「巨悪」の実態の科学的な解明に取り組むことができたのであります。
1979年日ソ共産党首脳会談
ソ連共産党は、1979年の日ソ両共産党首脳会談で、干渉について反省の言明を行いましたが、舌の乾かない12月アフガニスタン侵攻。ソ連のいいなりにならないアミン首相を殺害し、ソ連などの庇護下にあったカルマルを政権につけました。その後も干渉は続き、日本共産党との間で、厳しい論争が続きました。このたたかいは、1991年、ソ連共産党の崩壊という形で終止符が打たれました。
大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する
――ソ連共産党の解体にさいして
91年8月、ソ連でクーデターが発生し、ソ連共産党の関与と責任を追及する世論のなかで、ゴルバチョフが書記長を辞任し、ソ連共産党が解散に追いこまれます。
日本共産党は9月1日、常任幹部会の声明「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する――ソ連共産党の解体にさいして」を発表し、世界に巨大な害悪を流しつづけた党の終わりを「もろ手をあげて歓迎すべき歴史的出来事である」と表明しました。
一九九一年九月一日 日本共産党中央委員会常任幹部会
2日付「赤旗」の紙面
ゴルバチョフが八月二十四日、ソ連共産党書記長を辞任するとともに、「ソ連共産党中央委員会は解散という困難だが誠意ある決定を採択しなければならない」とのべ、二十五日に同党中央委員会書記局がこの声明を受け入れたことによって、ソ連共産党の解体は決定的なものとなった。
ソ連共産党の解体は、犯罪的なクーデターにこの党の指導部が深く関与したことを直接の契機としたものであったが、長期にわたって世界の共産主義運動、平和と社会進歩の事業に巨大な害悪を流しつづけてきた大国主義、覇権主義の党が終焉(しゅうえん)をむかえたことは、これと三十年余にわたって党の生死をかけてたたかってきた日本共産党として、もろ手をあげて歓迎すべき歴史的出来事である。
(一)
ソ連共産党が、スターリン・ブレジネフ時代から世界に及ぼしてきた大国主義・覇権主義の誤りが、二十世紀の世界史にもたらした重大な否定的影響は、はかりしれないものがあった。一九四〇年のバルト三国併合、四五年の第二次世界大戦終結時における千島列島と歯舞・色丹の不法な占有、五六年のハンガリー軍事干渉、六八年のチェコスロバキア侵略、七九年のアフガニスタン侵略など、くりかえしおこなわれた野蛮な武力による民族自決権のじゅうりんは、ほんらい対外干渉と侵略には無縁である科学的社会主義の理念を傷つけ、平和と社会進歩のためのたたかいに大きな困難をもちこんだ。
ソ連共産党の大国主義・覇権主義は、世界の共産主義運動や、平和・民主運動にたいして、自らの路線や行動を無条件におしつけるという点でも、きわめて有害な役割をはたした。ソ連共産党は各国の共産党にたいして、指導部を転覆して傀儡(かいらい)勢力をそれにとってかわらせたり、一国に複数の前衛党があってもよいとする「併党」論の立場から親ソ派を育成・援助するなど、手段をえらばない干渉をほしいままにした。そうした干渉と断固としてたたかわず、ソ連共産党に追従し、その路線と行動を無条件に支持・礼賛してきた党の多くは、自国で国民の支持を失い、泡まつ政党としてみじめな状態におちいり、あるいは東欧とソ連の激変をつうじて党そのものの解体という状況に直面した。
一九八五年にソ連共産党書記長となったゴルバチョフも、従来の大国主義・覇権主義の立場を無反省のままひきついだ。とりわけ重大なのは、ゴルバチョフが「新しい思考」の名のもとに、人民のたたかいを否定し、帝国主義者に不当な期待をよせて無原則にそれを美化する態度をとり、それを世界の人民の運動におしつけたことであった。社会発展の原動力としての人民のたたかいの意義を否定する、「レーニン死後最大の誤り」というべきこの未曽有(みぞう)の謬論(びゅうろん)の大国主義的おしつけは、世界の平和と進歩の事業にたいして広範な破壊的影響をおよぼした。
ソ連共産党は、七月末に開かれた中央委員会総会で決定された新綱領草案にもしめされているように、科学的社会主義の世界観を放棄して社会民主党化の宣言をおこなうなど、科学的社会主義の党としての実体を自ら否定していた党であった。しかも、こうして「転向」を宣言したソ連共産党は、新綱領草案にのべられているように、ソ連だけではなく世界中でもはや階級闘争や革命は不要だと主張し、世界の党にたいしても変節を事実上おしつける態度をとった。世界に大国主義の巨悪をふりまいてきたこの党は、自らの存在をやめる最後まで、それにふさわしい否定的な役割をはたそうとしたのである。
二十世紀の歴史的巨悪に最後まで無反省だったソ連共産党が、大国主義的なソ連邦体制の護持を直接の動機とする無法なクーデターに深く関与し、そのことへのきびしい指弾をうけて自壊の道をたどったことは偶然ではない。エンゲルスの言葉に「他民族を抑圧する民族は自由ではあリえない」という有名な警句があるが、対外的な大国主義は、国内における官僚主義と民主主義抑圧と一体不可分のものであった。他民族にたいしてクーデター的なやり方で無法な抑圧をしいてきたこの党が、自国においても反民主主義的なクーデターの暴挙にはしリ、そのことが自らの墓穴をほることとなったことは、当然のむくいといわなければならない。ソ連共産党の解散は、そうした歴史に逆らう者の必然的・法則的な破綻(はたん)にほかならないのである。
(二)
日本共産党は、この三十年来、こうしたソ連共産党の大国主義・覇権主義の歴史的巨悪にたいして、党の生死をかけてたたかってきた。
わが党は、チェコ侵略やアフガン侵略など、民族自決権をじゅうりんしたソ連の犯罪的行為にたいして、「社会主義の立場とは無縁」ともっともきびしい批判をくわえてきたことをはじめ、ソ連共産党の大国主義・覇権主義のあらゆるあらわれにたいする断固たる批判者であった。日ソ領土問題にたいしても、民主主義と国際法の道理にたって、不当なスターリンの大国主義的な領土併合をきびしく批判し、千島列島、歯舞・色丹の返還をつよくもとめてきた。
一九六〇年代前半以降に、ソ連共産党によってくわえられた大国主義的干渉とのたたかいは、わが党にとってその存亡をかけたたたかいとなった。ソ連指導部は、駐日ソ連大使館も活用して対ソ盲従の反党分派を育成し、それに激励と支持をあたえた。この反党分派によって日本共産党指導部を転覆し、党をのっとるというのが彼らのくわだてであった。これにたいして、わが党がもしも屈していたり、妥協的な態度をとったとしたならば、日本共産党にとって破滅的な事態になっていたことは明らかであった。しかし、わが党はこの干渉と徹底的にたたかいぬき、断絶をふくむ十五年間の不正常な両党関係ののちに、一九七九年、ついにソ連共産党に干渉の誤りを認めさせた。
しかし、その後も、アフガン侵略問題、ポーランドへの干渉問題、世界平和と核兵器廃絶の問題、日ソ領土問題、日本社会党美化問題、ゴルバチョフ「新思考」路線の問題などをめぐって、わが党とソ連共産党とのきびしい論争はつづいた。アフガニスタン問題などで、民族自決権擁護の立場からソ連の対外政策や行動にたいして批判的な態度をあきらかにした日本共産党にたいして、「反ソ主義=反共主義」と非科学的に断定した集中攻撃がくわえられた。
ソ連の覇権主義的な宣伝機関に堕した『平和と社会主義の諸問題』誌上では、系統的に「反ソ主義との闘争」なるキャンペーンがくりひろげられた。日本共産党は一九八一年十二月以降、この雑誌の廃刊と編集機関の解散を要求してたたかいつづけた。そのため、一時は、同誌の代表者会議などでソ連派の諸党から総攻撃をうけ、きびしい孤軍奮闘をしいられたこともあった。この時のわが党の態度表明にたいしては、「自主的」といわれた若干の諸党ですら、「行き過ぎ」ではないかとのべた。これらの党は、チェコ侵略やアフガン侵略のさい、言葉では反対や不同意を表明したが、それは一時的、眼定的なものであり、ソ連の大国主義・覇権主義克服を、世界の共産主義運動の恨本問題としてとらえて、このたたかいに正面からとりくむということをしなかった。しかし歴史の進行は、この問題でもわが党の勇気ある態度の正しさを証明した。『平社』誌は、九〇年、東欧とソ連の激変をつうじて大国主義・覇権主義の破綻が明りょうになるなかで、廃刊においこまれることになった。
このように、大国主義・覇権主義にたいするわが日本共産党の立場は、この歴史的巨悪をただ座視していたという歴史の傍観者の立場ではなく、それと文字どおり生死をかけてたたかいつづけてきた歴史の変革者としての立場につらぬかれている。世界の共産党、労働者党のなかでも、日本共産党の断固としたたたかいを明確に支持したものはない状況のもとで、そういう闘争をおこないえたというのは、わが党が共産主義運動の未来にたいする深い確信をもっていたからにはかならない。そして今日、その立場の正しさは、国際的にも認められ、東欧とソ連の激動をつうじての大国主義・覇権主義の破綻という事実によって、世界史のなかに確定しつつある。長年にわたる困難な闘争ののちに、ソ連共産党の解体という事実によって、この巨悪に反対をつらぬいた科学的社会主義の党としての値打ちが歴史によって証明されたことを、われわれは誇りに思う。
世界の社会主義の代表者のような顔をしながら、社会主義の立場とはまったく無縁の大国主義・覇権主義の害悪を流しつづけてきたソ連共産党が解体するということは、世界で科学的社会主義の立場を堅持してすすもうとする勢力への妨害物がなくなるという点で、世界の平和と社会進歩の勢力にとっても、日本共産党のたたかいにとっても、巨大なプラスをもたらすものである。これは、世界の共産主義運動の前途にとって、大国主義・覇権主義とそれへの追従の誤りから解放されて、大局的には新しい発展をかちとる条件と可能性をきりひらく歴史的画期となりうるものである。そして、科学的社会主義の学説・運動は、ソ連、東欧などでの覇権主義と非科学的な場あたり主義の破綻によっていささかも否定されるべきものではない。世界の科学的社会主義の運動が今日の時代を、これまでの運動の主体性を検討して運動の再検討をはかる絶好の機会となることをわれわれは希望する。
これまでわが党は、ソ連共産党によってくりかえし犯された大国主義・覇権主義の誤りとそれを利用した反共攻撃とたたかいつつ、日本の社会進歩の事業を前進させなければならなかったが、その巨悪が終焉をむかえたことは、日本の社会発展の事業の前途をおおいに有利にするものでもある。日本共産党は、こうした大局的展望からも、ソ連共産党の解体という事態を心から歓迎するとともに、世界的な帝国主義、覇権主義の害悪の全面的な清算をめざして、ひきつづき力をつくすものである。
(三)
ソ連の事態は、科学的社会主義の立場とは縁もゆかりもない大国主義・覇権主義の破綻としておおいに歓迎すべきことであるが、同時に、そういう破綻につづく現在のソ連の事態は、大国主義の遺産が継続していることにくわえて、資本主義待望論の傾向がますます勢いをましているなど、社会発展の法則的な進路から逆行する複雑な様相をていしていることを、リアルにみる必要がある。ソ連のさまざまな政治的潮流も、大国主義への無反省と、資本主義待望論という点では、問題点を共有している。したがって、これを「十月革命につづく第二の革命」などと、社会の法則的発展の必然的段階のようにみることは、正しい見方とはいえない。
こうした混乱と方向喪失は、スターリン、ブレジネフからゴルパチョフにいたる、長期にわたる科学的社会主義からの重大な逸脱の継続の結果としてうまれているものであり、この混迷を脱して大国主義の誤りと無縁な科学的社会主義の立場に立った有力な潮流がうまれるのは、多くの紆余曲折(うよきょくせつ)と長期にわたる展望をともなうものとなるだろう。しかしいずれは、ソ連社会の矛盾と人民の要求そのものが、そういう潮流を生みだすことになることも法則的であるという展望を、われわれはもっている。
こうしたもとで、発達した資本主義国で活動する日本共産党の世界的役割は、いよいよ重大なものとなっている。ソ連共産党が犯したさまざまな誤りも、根本的には、この国が第一次世界大戦のさなかに資本主義的発展の遅れた段階から、歴史のくみあわせによって社会主義の道にふみださざるをえなかったことと、むすびついたものであった。もちろん、われわれはこの誤りを不可避だったとみなすことはできないし、レーニンの指導のもとでソ連がしめした無併合・無賠償の平和、民族自決権の確固たる尊重、勤労者の生活と権利の抜本的拡充など、体制としての社会主義の先駆性をしめした画期的な事業の世界史的意義は、その継承者たちの誤りの破綻があらわになったからといって、清算主義的に否定されるべきでない。同時に、発達した資本主義国である日本における革命の事業は、文化・情報・組織の網の目がはりめぐらされているもとでの非常に緻密(ちみつ)な忍耐をもとめられる困難な事業であるが、高度な生産力の発展という点でも、民主主義の一定の経験の蓄積という点でも、人間の民主的な個性の発展という点でも、人類史の新しい未来をひらくはかりしれない新しい可能性をもった事業である。日本共産党は、世界の中でも大国主義の誤りとたたかいつづけてきた党として、この雄大な事業をきりひらく先頭にたって奮闘する国際的責務をおっている。
反動勢力やブルジョア・マスコミは、ソ連の事態を利用して、「社会主義の実例がなくなった以上、日本共産党のいうことには説得力がない」といった、新しい装いでの「社会主義・共産主義崩壊」論を氾濫(はんらん)させている。しかし、科学的社会主義の生命力をしめす「実例」は、外国のあれこれの国にあるのではない。日本において科学的社会主義の党が、戦前、戦後の六十九年、日本の社会発展の法則的な促進者としてどういう役割をはたしてきたかという中にこそ、わが党の存在意義をもっとも雄弁に語る「実例」が確固として存在しているのである。とりわけ、戦前の絶対主義的天皇制の暗黒政治のもとで、日本共産党がどんな弾圧にも屈せず、侵略戦争反対、国民主権の旗をかかげつづけ、その正しさが歴史の現実の進行によって確定したものとなっていることは、日本共産党の存在意義を不滅のものとしている。どのような反共攻撃も、こうした歴史の事実の前には、まったく無力なものであり、恐れるにたらないものである。
大国主義・覇権主義の党の歴史的終焉という事態にさいして、その歴史的巨悪とたたかいつづけてきた党として、そして国民とともに日本の社会発展を促進してきた輝かしい歴史をになってきた党として、日本共産党は、世界の発展、日本の社会進歩の事業の前進のために、全力をかたむける決意を新たにするものである。
(「赤旗」一九九一年九月二日)
2004年に採択した党綱領は、その輝かしい成果であります。(拍手)
わが党が、社会主義の「ルネサンス」を体現する党となり、政治活動のうえでも、理論活動のうえでも、資本主義世界で最前線に立つ党となっていることを、祝賀しようではありませんか。