水俣病

炭化カルシウムからアセチレン,これを水銀触媒を使ってアセトアルデヒドに変える一連の合成方法を発明

1931年(昭和6年)、熊本県水俣町(現・水俣市)にある日本窒素肥料株式会社(チッソの前身)水俣工場の技術者の橋本彦七らは、炭化カルシウムからアセチレンを作り,これを水銀触媒を使ってアセトアルデヒドに変える一連の合成方法を発明し、特許原簿に登録した。

アセチレンから塩化ビニール

1932年(昭和7年)から同工場で操業開始。アセトアルデヒドを原料とするブタノール、酢酸、酢酸エチル、無水酢酸、酢酸繊維素、酢酸ビニールなどの製品化に成功。
さらに、1938年(昭和13年)、橋本は水俣工場長に就任[13]。1941年(昭和16年)、チッソは日本で初めてアセチレンから塩化ビニルへの合成に成功した[14]。橋本は第二次世界大戦後、水俣市長を通算4期務めた。

有機水銀を含む排水を無処理で海に流す

チッソは、アセチレンの付加反応に金属水銀や昇汞(塩化水銀(II)の別名)を用いており、目的の反応生成物を取り除いた後の工業廃水を無処理で水俣湾に排出していた。そのため、これに含まれていたメチル水銀が魚介類の食物連鎖によって生物濃縮し、これらの魚介類が汚染されていると知らずに摂取した不知火海沿岸の熊本県および鹿児島県の住民の一部に「メチル水銀中毒症」がみられ、これが水俣病と呼ばれることとなった。環境汚染の食物連鎖で起きた人類史上最初の大規模有機水銀中毒でかつ世界中に公害病として知れ渡った。

1942年頃から1952年頃には水俣湾周辺の漁村地区を中心に、猫・カラスなどの不審死が多数発生し、同時に特異な神経症状を呈して死亡する住民がみられるようになった。この頃は「猫踊り病」と呼ばれていた。1959年の10月には、チッソの附属病院の院長だった細川一による猫を使った実験により、排水が原因で水俣病を発症することが実証されていたがチッソはその後も長くこの事実を隠し続けた。実験の事実が明らかになったのは、10年以上後の1970年、水俣病訴訟での証人尋問の中でのことである。この1文が原因となって、後の1969年になって水俣病患者家庭互助会は2分され、チッソが推す厚生省への一任派と裁判で決着を付けようとする訴訟派に分裂した。

更に、チッソや日本政府が水俣病患者の認定条件を狭めたため、水俣病の症状が出ていながら患者として認定されない者が出てくるようになった。このことに憤った患者やその家族は、前述の一任派・訴訟派とは別個にチッソと直接交渉を行って補償を勝ち取ろうとする自主交渉派を結成した[36]。自主交渉派の中心は川本輝夫・佐藤武春である[37]。彼等はチッソ水俣工場前で座り込みを行って抗議を行い、1971年12月6日には東京丸ノ内にあるチッソ本社で座り込みの抗議を始め著名人も彼等を支持するようになった[38]。

翌1972年1月7日、自主交渉派はチッソ労働組合連絡協議会議長の夏目に面会するため千葉県市原市五井にあったチッソ五井工場 (現・JNC石油化学市原製造所) へ向かった[39]。これは、チッソの上層部が本社前の座り込み抗議を排除しようとして五井工場の組合員だった従業員を派遣したので、その抗議を行うためだった[39]。この抗議活動に、スミスやアイリーン、報道陣も同行した[39]。ここで、川本輝夫率いる水俣市からの患者を含む交渉団と新聞記者たち約20名が暴行を受ける事件が発生した[40][41]。これを五井事件と呼んでいる。

チッソ側と自主交渉派の間で押し問答が発生している間に、チッソが約200人の従業員[注 3]を投入して殴る蹴るの暴行を加えて実力排除に訴えた[43]。暴力は報道陣やスミスにも加えられた。スミスはカメラを壊されたほか、この時の暴行が原因で頭痛と視力低下に悩まされるようになった[44][注 4]。チッソ側は、自分たちが暴行を加えた事実はなく、スミスが自分から暴れて転倒し自分で勝手にけがをしたのだと主張したが、スミスは暴行を加えられた時の写真をとっており、その時の写真は後に出版された写真集『MINAMATA』に使われた[47]。暴行の容疑者は不起訴処分となった。

ユージンの後遺症は重く、複数の医療機関に通い続けたが完治することはなかった。この事件でユージンは「患者さんたちの怒りや苦しみ、そして悔しさを自分のものとして感じられるようになった」と自らの苦しみを語った。ユージンはチッソを告訴することも勧められたがそれを拒み、その後も水俣市と東京都内を行き来しながら、患者らの後押しを受けて撮影を続けた[4]。

1945年の沖縄戦での負傷の後遺症で、ユージンは歯の噛み合わせが悪くなり、ほとんど食べられなくなっていた。またアルコール依存症にも苦しみ、アイリーンによれば「毎日10本の牛乳と、オレンジジュースに生卵を入れて混ぜた飲み物が栄養源で、それにサントリーレッドの中瓶を1日1本ストレートで飲んでいた」という[4]。チッソ五井工場での暴行による負傷が体調悪化に拍車をかけ、激しい頭痛に悩まされ「(風呂の薪割り用の)斧で頭を割ってくれ」とアイリーンに頼むこともあった[4]。

水俣プロジェクトの終焉
1973年4月13日から17日までの期間[48]、西武百貨店池袋店で写真展『水俣――生、その神聖と冒瀆』を開催した[4][48]後、ニューヨークへ飛び医師に診察をしてもらうと同時に、アメリカである程度大規模に発表できる媒体を探したが、写真雑誌『カメラ35』への掲載が決まった[49]。一方、写真展は同年10月に水俣で、その後は新潟でも開催された[50]。

ニューヨークから日本へ戻り、再び水俣での撮影を続けたが、この頃はスミスの体調が悪かっただけでなく、経済的にも行き詰っていた上にアイリーンとの関係も悪化していたので、撮影プロジェクトは次第に終わりが見え始めていた[51]。スミスは次第に、シェリー・シュリスという名の写真学生に心を奪われるようになっていた[52]。オイルショックによる経済の停滞も影響が大きく、スミスは東京に戻った時の拠点だったセントラルアパートを引き払い[注 5]、代わってアイリーンの親戚が持っていた板橋区大山にあったアパートを借りた[54]。これ以降、スミスが撮った水俣の写真はあまり多くない。

1974年春に再度帰米して治療を受けた後、ニューヨーク・タイムズ紙のインタビューを受け、記事は大きな反響を呼んだほか、ラリー・シラーが提示した破格の条件 (ハードカバー1万部、ソフトカバー9万部の出版、印税総額10万ドル、うち3万ドルを前払い) での写真集出版の話しがまとまった[55][注 6]。

この契約により、それまで無給のアシスタントだった石川は初めて給料と呼べるようなまとまった金額を受け取ることが出来た[57]。

同年の6月中旬、スミス、アイリーンと石川は水俣に戻ってわずかな写真を撮った[57]。そして、水俣をテーマにしたプロジェクトはこれが最後になった。11月24日、スミスとアイリーンは帰国[58]、ロサンゼルスで写真集『MINAMATA』に載せるための文章の仕事を翌年の1月までに片付け、1975年4月にはICP (International Center of Photography) で写真展が開催され、同年5月にはアイリーンとの共著で写真集『MINAMATA』も出版された[59][4]。しかしその直後、ユージンとアイリーンは離婚することとなった[4][31][60]。

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