中国 アヘン戦争から

1839年9月 アヘン戦争

1842年 南京条約

1856年10月8日 アロー号事件

1894年 日清戦争 反侵略・反封建の農民蜂起(甲午農民戦争)きっかけに日本と清の両国が朝鮮に出兵して始まる 9月に平壌と黄海の海戦で勝ち、10月に清の領内の遼東半島、翌1月には山東半島に侵攻し、3月には澎湖島を占領と、120日後の翌年3月には清が降伏し、1895年4月17日に下関の春帆楼(しゅんぱんろう)での講和会議を経て調印。会議が開かれた山口県の赤間関市(現下関市)の通称だった「馬関」をとって、一般には馬関条約(ばかんじょうやく)と呼ばれた。遼東半島租借権を勝ち取ったが、フランス・ドイツ・ロシアの三国による干渉があり戻す。

1904年 日露戦争

日露戦争(にちろせんそう、ロシア語: Русско-японская война ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー、英語: Russo-Japanese War、1904年(明治37年)2月8日 – 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国とロシア帝国[7]との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。

講和の結果、ロシア領の南樺太は日本領となり樺太庁が設置され、ロシアの租借地があった関東州については日本が租借権を得て、関東都督府が設置された。日本は軍費の相当部分をドイツ帝国から調達していた。そのドイツはロシア中央銀行経由で露清銀行を勢力下においていたが、同行の活動は日本が満州へ進出したことにより妨げられた。

この条約によって日本は、満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、軍事費として投じてきた国家予算4年分にあたる20億円を埋め合わせるための戦争賠償金を獲得することができなかった。そのため、条約締結直後には、戦時中の増税による耐乏生活を強いられてきた国民によって日比谷焼打事件などの暴動が起こった。

1911年10月10日 辛亥革命

清朝(満州族)は北洋軍閥を率いる袁世凱に反乱軍(辛亥革命)の鎮圧を
命じたのだが、袁世凱は反乱軍(革命派)側と極秘に連絡を交わし、
事態収拾のため「中華民国」を建てて革命派の孫文を臨時大総統にする事を
清朝に進言する代わりに、すぐに自分を大統領にする事を孫文に求め、
自分が大統領に就任したら、清朝の皇帝・宣統帝を退位させ、
共和制に移行する事も孫文と約束していたので、約束どおり孫文は大総統を去り、袁世凱が大総統となった。

1912年2月12日宣統帝(溥儀)の退位

1912年2月12日、袁世凱は最後の皇帝・宣統帝を退位させ清朝は滅亡、しかし袁世凱は孫文と対立し、革命派を弾圧して独裁体制を取るようになり、革命は名ばかりとなった。

1912年 国民党 建国された中華民国の選挙で勝つために結成された政党。

政敵だった袁世凱に弾圧され、1913年に解散。中華民国に居場所を失った孫文は、日本に亡命する。

1913年 孫文、国民党を結成して袁世凱に対抗するも敗北。日本へ亡命する・・・

孫文は国民党を結成して選挙を有利に進めるも、袁世凱が軍事力を用いて国民党を弾圧。袁世凱は独裁政権を立ち上げる。 孫文は日本へ亡命して、 再起のチャンスを狙う。

1914年 孫文、日本で中華革命党を結成。再起に備える 1914年 中華革命党 袁世凱が率いる軍閥政権を倒すため、亡命先の日本で中華革命党を結成

袁世凱にリベンジするため、秘密裏に少数精鋭の同志を集めた中華革命党なる組織を結成する。

1917年 孫文、再起。袁世凱の跡を継いだ段祺瑞を倒そうとするも、またもや失敗

1919年 中国国民党

五・四運動で革命に民衆のパワーを取り込む必要性を痛感した孫文は、中華革命党を中国国民党に改め、革命のあり方を見直すことにした。

1913年7月 第二革命(だいにかくめい)は、

革命における第二段階のことで、主に民国革命の二段階として中国で起きた、孫文国民党勢力による袁世凱政権打倒のための一連の軍事蜂起を指す

19217月に、コミンテルンの主導により、北京大学文科長の陳独秀や北京大学図書館長の李大釗、元北京大学図書館司書の毛沢東らが各地で結成していた共産主義組織を糾合する形で、上海にて中国共産党第1次全国代表大会(第1回党大会)を開催

チャーリー宋の長女の宋靄齢は大財閥の当主孔祥熙と、次女の宋慶齢は中国革命の父孫文と、三女の宋美齢は後の中華民国総統蒋介石と結婚し、「一人は金と、一人は権力と、一人は国家と結婚した」と言われた。彼女たちは辛亥革命満州事変西安事件日中戦争国共内戦と続いていく激動の中国近現代史を動かす存在となっていく

中国国民党と中国共産党は、軍部(袁世凱)による政権(軍閥政権)を倒すため、協力関係を結ぶ。

1924年 第1次国共合作

中国で成立した国民党と共産党の協力関係。孫文の主導により実現し、軍閥政府との戦いを進めた

1927/04/18   南京国民政府成立

1927年 第1次国共合作破たん

蒋介石による上海クーデターで共産党勢力が排除され、破綻

1928年(昭和3年、民国17年)6月4日、中華民国・奉天(現瀋陽市)近郊で、日本の関東軍によって奉天軍閥の指導者張作霖が暗殺

1931年9月18日 柳条湖事件(満州事変 リットン調査団)

関東軍による満洲(現中国東北部)全土の占領を経て、1933年5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争(事変)である。中国側の呼称は九一八事変。関東軍はわずか5か月の間に満洲全土を占領し、軍事的にはまれに見る成功を収めた。

1931/11/07 中華ソビエト共和国臨時政府(瑞金政府)成立

1934/10/15 紅軍、瑞金を脱出 (長征開始).

 1935/01/13 遵義会議(じゅんぎかいぎ)(中央政治局拡大会議で毛沢東、中国共産党内の指導権確立).

リトロフらの指示に忠実な秦邦憲(ソ連留学組)ら都市に対する全面攻撃を主張していた主流派と、中国独自の革命路線をかかげ農村に根拠地を造って都市を包 囲する戦術を主張していた毛沢東らがするどく対立していた。毛沢東は主流派を「極左冒険主義」として批判、それまで主流派であった周恩来が 自己批判して誤りを認め、会議の大勢は毛沢東支持にまわり、結局秦邦憲は指導部からはずされ、毛沢東が軍事担当の政治局常任委員に復活した。これによって 毛沢東が共産党の主導権を握り、毛沢東路線が採用されることになった。中国共産党でコミンテルンの支持を得ずに指導権を握ったのは毛沢東が初めてであっ た。コミンテルンは共産党内で王明などソ連帰国組を通じてなお影響力を持ち、1943年にコミンテルンが解散するまで対立が続く。

1935/08/01 八・一宣言. コミンテルン

1936/12/12 西安事件  張学良・楊虎城、蒋介石を監禁

1937年7月7日 盧溝橋事件

1937年9月22日 第2次国共合作

1943年 コミンテルン解散 スターリンの意向が貫かれなくなって解散

              デュミドロフなどを使ってコミンフォルムへ

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