ヨシフ・スターリン粛清

1924年レーニン死去

ソビエト連邦最高指導者ソ連国内と衛星国モンゴル人民共和国、ポーランド、ウクライナ等で実行した大規模政治弾圧。

ロシア連邦国立文書館の統計資料

1934年12月のキーロフ暗殺事件は、35年から38年に荒れ狂った「大テロル」の発火点になりました。

1937年~1938年の1年間で反革命罪で134万4923人が即決裁判で有罪、63万4820人が強制収容所や刑務所へ送られている。

1917年の革命に参加したオールドボルシェビイキといわれるレーニンの息のかかった旧指導者層は一部を除いて絶滅させられた。

1922~23年にスターリンの立場の有害性を見ぬいたレーニンが、スターリンの大国主義と粗暴な官僚主義に対する「最後の闘争」を決意したころには、すでにかなり危険性を強めていて遅かった。

理由はレーニンが「スターリンだけは書記長にするな」と言い残したことによると推測される。1934年の中央委員会メンバー139人中110人が処刑または自殺に追い込まれている。

1939年の大会に参加できたのは2%だったと記されている。

1937年第17回党大会の1966人の代議員中1108人が銃殺刑。

1940年にトロッキーがメキシコで殺害後はレーニン時代の最高指導部で生き残ったのはスターリンを除けばカリーニンだけだった。

1953年3月5日、スターリンが死ぬまで専制政治が続けられた。大会・中央委員会がほとんど開催されなかった。スターリンに対抗していたものは全て嘲笑の下にモスクワ裁判という公開裁判で死刑の宣告を受けた。

ブハーリン、カーメネフ、ジノビエフ、トムスキー、ルイコフ、ピャタコフ、デラック

スターリンは「農業集団化」の時、反対する農民を「富農」としてすべて追放します。「富農」かどうか判定するのに、地方の党委員会書記やソビエト執行委員会議長らで三人組をつくり、即決裁判で農民の追放を進めました。それが「トロイカ体制」です。

 スターリン自身が1千万人追放したと言っているように、膨大な人間を弾圧する仕掛けでした。おまえの地方では何万何千の人間を整理せよ、超過達成せよ、という調子です。

 

 NKVDの責任者を務めたベリヤは収容所体制を一つの有力な「産業」部門にまでしました。収容所という非常に安い労働コストで、大運河や原爆をつくりました。日本のシベリア抑留者もベリヤ部門に配属されたのです。

非共産圏の共産党員も被害にあう。

1939年ドイツの共産党員600人がゲシュタポに引き渡される。

イタリア共産党員200人

ユーゴスラビア人100人

ポーランドの共産党員指導者5万人全員が銃殺

1942年コミンテルンのスタッフ全員が粛清

米英独仏ポーランド日本の役員や共産主義者たちがスパイ破壊活動家の汚名を着せられてさらし者にされて死刑にされている。

日本では判明しているだけで、山本懸蔵、伊藤政之助、国崎定清、杉本良吉ら10~20名が処刑されている。

1936年第1次モスクワ裁判から赤軍の大粛清も行われている。

1937年6月11日、ミハイル・トーハチェフスキー元帥はじめ、キエフ軍管区司令官、白ロシア軍司令官、ら高官がナチスドイツのスパイとして銃殺される。

6月20日、シュミット将軍処刑。レーニンの息のかかった軍人元帥5人中3人、軍司令官級15人中13人、軍団長級85人中62人、師団長級159人中110人、旅団長級406人中220人、大佐級も4分の3が殺され、大佐以上の高級将校の65%が粛清される。ソ連赤軍特有の政治委員2万人、赤軍の共産党員30万人の半分15万人が1938年代に命を落とす。

1878年12月21日、ロシア帝国統治下のグルジアゴリで生まれた。正教神学校で教育を受けるが[2]、後に無神論に転向してマルクス主義の信奉者となり、1899年10月に神学校を去って革命家へと転身した[3]

その後、ウラジーミル・レーニンが率いるロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ派に加わり、1912年に党中央委員に選出された。1917年十月革命でボリシェヴィキが権力を掌握した後、レーニンのロシア共産党による独裁国家が成立すると、その行政府である人民委員会議の有力者となり、1922年4月に党書記長に就任し、同年12月のソビエト連邦の建国にも深く関与した。ソビエト連邦の指導者であったレーニンが1924年1月に死去すると、その後継をめぐって起きたレフ・トロツキーとの権力争いを制し、自身が務めていた党中央委員会書記長に権限を集中させることで最高指導者としての地位を確立した。党内ではトロツキー派の世界革命論(永久革命)を否定して、一国社会主義論による国内体制の維持を優先する路線を示した。この理論対立はトロツキー派の粛清の大義名分としても用いられた。

以降は人民委員会議議長および同職を改組した閣僚会議議長、軍事大臣、前述の党中央委員会書記長などの要職を兼任し、死去する1953年3月まで最高指導者の地位にあった。

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